(上)
P12
僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。
P16
だって誰かが誰かをずっと永遠に守り続けるなんて、そんなこと不可能だからよ。
P17
ねえ、もっと肩の力を抜きなよ。肩に力が入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。
肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ。
P21
文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
P49
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
P86
車のヘッドライトが鮮やかな光の川となって、町から町へと流れていた。
さまざまの音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと町の上に浮かんでいた。
P88
蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、
そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。
P99
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの。」と僕は言った。
彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「孤独が好きな人間なんていない、失望するのが嫌なだけだ。」と言った。
P105
(永沢)「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
P108
この連中の真の敵は国家権力ではなく創造力の欠如だろうと僕は思った。
(下)
P48
「ねえ,ワタナベ君。私が今何をしたがっているかわかる?」
「さあね、想像もつかないね」
P50
「ねえ、今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訊ねた。
P63
「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」
「ピース」と僕は言った。
「ピース」と緑も言った。
P94
人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。
P115
「理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。」
P116
(永沢)「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、
その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
P119
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。
……ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。
P127
(ハツミ)「少なくともこの一年くらいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」
P128
「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」
「好きよ」と彼女即座に答えた。
「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。
「それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」
P132
僕はもうすぐ二十歳だし、僕とキズキが十六と十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻ってはこないのだ、ということです。
P154
「すごく可愛いよ」
「ミドリ」と彼女は言った。「名前つけて言って」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。
「すごくってどれくらい?」
「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
P155
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
P170
「自分に同情するな」と彼(永沢)は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
P173
他人の心を、それも大事な相手の心を無意識に傷つけるというのはとても嫌なものだった。
P182
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。
P188
(緑)「私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。いまこれをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」
P190
(緑)「あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもとに戻ってしまうみたいです。」
P205
「でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私がこの二ヵ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを?」
P206
「彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃたんだから」
P217
「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。」
P227
我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。
P231
なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。
P237
季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。
P259
「あなた(玲子)は誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴しいのにもったいないという気がしますね」
P261
「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。
「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」
P262
緑は長いあいだ電話の向こうで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。
……僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
2013/1/4 完読。